戦争を起こさない方法

最近特に考えさせられる事があって、僕のリアルな友達と話してる時によく話になるが、宗教が違う事が非難の対象になることがそもそも間違ってるって結論によくなる。
現代のリアルな戦争はもちろんそれだけが理由にはなってない事はもちろん理解をしている。


誰しも人と考え方が100%合うことが絶対に無くて、あなたの恋人の事を全部理解してるって人がいれば会ってみたいと常々思う。
そういう人の考え方はただのおごりであるという事を理解した方がいいと思うし、あなたが好きなアニメはどこかでは気持ち悪いとまで言われている事実。


友達とは考え方が全く違う事が多く、否定される事が多いが、だからといって、
「お前はクソ」だの「死ねばいい」だの暴言を吐いたり一対他で人を責めたりしない。
それよりも


「あなたと私は意見が全く異なるけど、そういう考え方が違ってて面白いね。」


みたいな感じでお互いの平行線に対して敬意を持って接すのでとても居心地が良い。
宗教で言うところの


「君はキリスト教で僕は仏教、あなたはイスラム教で、あの人はモルモン教でいろんな神様がいて面白いね。」


ってだけの話で、こういう場合に非難を行う人は、


「君はキリスト教であなたはイスラム教、神は一人だ!さあジハード!」


って考えと全く変わらない。


そもそも自分の目線で見た場合に価値観が異なれば意見が異なるのは当然で、「価値観による意見の相違」って言葉が大好きで自分の座右の銘としている。
ネットで一番面白いのが、自分と価値観が全く異なる人々がたくさんいてそこを眺めているのが本当に面白い。
だいたい僕が他人を非難する場合は、自分の利益が侵される場合で、仕事の場合はよく非難を行う。


世の中は個性があるとすばらしいみたいな印象を受ける。暴論だけど没個性な人はだめだとまで錯覚させる。前に何かの記事で読んだが、アメリカの問題点は教室に30人いれば、30人考えが違わないとまずい。って話を読んで不思議な気持ちになった。
全員が異なる個性を必要とされている場所はもちろんあって、某社の経営理念の「作る人を増やす」はミュージシャンがリスナーより格上だって意味では全くないと理解している。
そもそも人の宗教とか身なりとか国籍とかの違いは全く問題が無くて、ただの区別であって差別ではない。
僕の周りにはいろんな人がいて、普通のサラリーマンに始まり、学生、芸術家、元やくざ、鬱病、薬物中毒、違う国の人とか多種多様な人が居て楽しく生活をしている。


前に友達の女の子が不細工になってたので、不細工になったねーって話をしたら周りの女の子が
「○○ちゃんは性格は良い子なんだよ。」
って突っ込まれた事があって、はぁ?と思った。


そもそも不細工っていう属性なだけで、誰も一番重要なところの性格は否定をしていないが、彼女の友達達は性格”は”っていう事はあなた達が勝手に全部を否定している事になってて、否定しているのはお前でお前こそが悪者じゃないの?それが言いたいなら
「○○ちゃんは性格も良い子なんだよ。」
じゃねーの?

って思った事がある。
例えば、オタクの人がケミカルウォッシュのデニムを着ているはモードなブランドとは違うだけで、区別でしかなく、それ以上の個人的な感情で気持ち悪いって話入れるかどうかが本質。


極論を言えば、きれいなタンポポが咲いている場合、その花がきれいである意見を全員認めないとダメで、ただの雑草意見は認められないということで、雑草であるという区分が認められずただの言論統制以外の何者でもないし、みんなが右向け右を求める世界は正直気持ちが悪いしつまらない。


他者に攻撃を行う人は本質とは異なる攻撃を行う事が多くその時点で本質からずれているのでそんなに気にしない様にしている。
お前の言い方に配慮が足りず、むかつくって言われる方が本質的で理解しやすい。
結局のところ、人に批判を行う場合に自分も含め誰しも正確に本質を伝える事が難しい事は理解をしているが、クソだの死ねだの人の生存権をも脅かす批判こそが問題であり、自分と違う本質を必要以上に攻撃する事の方が問題で、僕たちの周りではそういう人を、


「生まれた国が違えば宗教が違うだけで戦争を起こし、人の命を脅かす危険思想。」


と定義することにより他者との戦争が起きないように一日数回メッカの方角を向いて祈りを捧げ、日曜教会に足を運び、盆には精霊流しを行うことにしている。